
IUIピックアップ VOL.25
震災をめぐる建物の歴史とこれから
インタビュー
大野 敏[日本建築史、古建築保存修復/建築都市文化コース教授]
Interview with
Satoshi ONO
写真|白浜哲(ポートレート)
まずは建築の歴史を研究分野にされた背景を伺いたいと思います。大野先生は小さい頃からすでに建築を目指していたのでしょうか。
大野 私の場合は建築を目指していたとか、父親が建築関係の仕事をしていたわけではありません。父親は群馬県の片田舎の中学校教員(国語と社会科)で、教員の研究会や組合活動で土日に県内各地に車で出かけることが多くありました。小さい頃は外に出かけたいので、父親についていくのですが、会議となると2、3時間ほどかかってしまう。その間、会場近くの古墳などの遺跡公園で遊んで待っていることが多かったんです。群馬は各地に古墳が多くて、当時は石室が自由に出入りできるところもあったので、それらを見たりするのが好きでした。そういう古墳などの歴史遺産に何となく興味を持っていたのと、小さい頃からおもちゃのような遊び道具をつくったり、絵を描いたりすることをやっていたようで、父親から「建築に行ったらいいんじゃないか」と言われていたことはありました。それが自然と刷り込まれていたのかもしれませんが、高校三年生の時にちょうどデビッド・マコーレイ著『カテドラル―最も美しい大聖堂のできあがるまで』(岩波書店、1979年)という絵本の翻訳版が図書室の新刊コーナーあったのを偶然借りて「ゴシック教会はすごいな」という感覚を持ち、建築に惹かれたと思います。

その中でも歴史研究へと向かったのはどのような経緯があったのでしょうか。
大野 文化財という言葉さえよく理解していませんでしたが、古い立派な建物を残したり、伝えたりする仕事をしたいとは横浜国立大学に入る前から漠然と考えていました。最初は西洋建築への憧れ程度ではあったものの、そういった歴史的な建物を残したいという気持ちは多少なりともあったと思います。入学した工学部建築学科では、井上充夫先生が建築史・建築芸術研究室の教授、関口欣也先生が助教授でした。西洋建築史の初回の講義で、井上先生から「我々が建築史を研究する目的は、将来文化庁に入って建物を修理したり、直接的な利益に関わるためではない」と言われて愕然とした覚えがあります。純粋に建築史をしっかりと学ぶことが大事であり、仕事にしようと考えてはいけないということですね。一方で日本建築史を担当されていた関口先生は、黒板にものすごく綺麗な絵をどんどん描いて建築史について間髪入れずに説明してくれましたが、学生たちは一生懸命にその板書の図を写すのに精いっぱいで、なかなか内容に追いつくことができない。たとえ受講者が一人だったとしても、容赦なく授業を進めていくようなブレない授業でした。だけどそうした関口先生の授業の迫力に「日本建築ってやっぱりすごいな」と圧倒されました。それでまずは日本建築をちゃんと勉強した方がいいんじゃないかと思い、徐々に引き込まれていきました。
大学卒業後はすぐに文化庁へ入庁されることになったのでしょうか。
大野 卒業後は「文化財建造物保存技術協会」(文建協)という文化庁指導下の財団法人(現在は公益財団法人)に入りました。文建協は全国に残る国宝や文化財建造物の保存修理をする技術者集団で、京都、奈良、滋賀、和歌山以外をすべてカバーする東京に本部を置く組織です。しかし勤務先はどこに派遣されるのかは分からないし、文化財の修理事業は短ければ1年、長ければ3、4年はかかります。つまり全国を転々としながら、ジプシーのような生活をして渡り歩かないといけません。文建協の存在は父親から教えてもらい、関口先生に相談しました。関口先生は文建協の存在はご存知でしたが、勤務体制の不安定さを気にして弟子に紹介することはありませんでした。ですから私の方から行きたいと相談したことに対して「やる気があるのならば厳しいけれど頑張ってください」と喜んでくださいました。そういうことで、文化財建造物に直に接して調査や修理設計・現場監理行い、建物だけでなく伝統的技術も保存継承する仕事に進みました。
今回の特集テーマである災害について、さまざまな角度からお話をお伺いしたいと思って来ました。災害との関連だと、どういった研究を進めていらっしゃいますか。
大野 災害と関係している研究としては、群馬県伊勢崎市の「田島弥平旧宅」という世界遺産に関するものがあります。富岡製糸場を中心とした絹産業遺産群のひとつで、製糸場にしっかりとした原料(繭)を供給するために必要な良質な蚕種(卵)の生産方法に革新をもたらした田島弥平の屋敷です。田島弥平旧宅の所在地は私の実家の隣町で、大きな2階建て瓦屋根の養蚕住宅がたくさん建ち並んでいる地域として地元では有名でした。この地域に17年ほど前から関わっています。そこで驚いたのは、利根川の氾濫原となる痩せた土地をうまく活かす逆転の発想です。毎年のように洪水に晒される地域で、砂地のため大した作物もできず、桑くらいしか生産できない土地とされてきましたが、利根川氾濫により桑の木の根元の寄生虫の卵が流されるわけです。桑葉に寄生虫が産卵すると繭が被害に遭うため、養蚕農家にとって最も恐ろしいことですが、河川氾濫によって寄生虫リスクが低くなった桑葉は、養蚕のために良質です。農地としての不利さを良質な桑葉生産に活かしたのです。そして良質な桑葉を用いて飼育した健康な蚕が良質な蚕種生産に必須との考えから、江戸時代末期に大型の瓦葺き2階建て住宅の2階部分を、換気重視の蚕室空間とする画期的な建築を考案します。このように柔軟な発想力を持った地域の人たちは、江戸時代から子どもの教育にも熱心で、江戸へ行かせて漢文を勉強させたり、文人との交流を図ったりしながら社会を見据える能力を養っていました。隣村には渋沢栄一の生家もあります。田島弥平の本家は渋沢家との姻戚関係を持ち、その縁で三井物産の協力を得て、群馬の島村で蚕種を営む製造家は明治初期に欧州へ蚕種を直接売り込みに行き、欧州の最先端の蚕種検査手法を学んで戻り、島村蚕種のブランド化にも成功します。そしてあくなき蚕種製造手法の継続に裏付けられたブランド力を背景に、日本を代表する蚕種製造地として関東や周辺のみならず全国的にも影響を与えることになりました。
一方、利根川の氾濫に対しては、石垣積の基壇と住宅1階の開放性で対応しました。基本的に屋敷地は自然堤防的な微高地に設けますが、重要な建物は石垣でより高い位置に構えます。飲み水を確保するための井戸の基壇面が一番高い場合が多く、次いで貴重品を収めた土蔵、その次に住宅となるようです。住宅の場合は、1ⅿ位の洪水ならば基壇あるいは床下浸水くらいでしのぎ、それ以上の洪水の場合は、壁の少ない構造で洪水を受け流します。この時、1階の畳・建具や床の間の着脱可能な襖壁は外して2階に収納し、洪水後に1階を清掃して復旧します。こうした災害と復旧の相互を段階的に想定した家づくりに驚きました。利根川の大規模河川改修が明治末から大正初期に行われたので、大正中期以降は建築時に石垣積基壇を築かなくても良くなりますが、それ以前はすべて立派な基壇の上に住宅や蔵、井戸をつくる伝統がありました。まさに災害と共生しながら、自分たちの生活を確保して発展させてきた部分だと思います。
寺田寅彦の『天災と国防』には、「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である」と書かれてあります。関東大震災はそういった災害の備えのない都市が受けてしまった大被害だと思いますが、歴史の立場から被災した建築を見た時にどんなことを感じられますか。
大野 例えば横浜正金銀行本店本館だった現在の「神奈川県立歴史博物館本館」は明治後期(1905)の建築で、港横浜の顔と言える存在です。ただ、歴史的に重要な価値を持っているにもかかわらず、この建物にはしっかりした図面が残っていません。竣工時の図面は資料や雑誌に紹介された簡単な平面図くらいしか残っておらず、震災復旧時の図面も部分的に確認できるだけです。日本の貿易金融の発祥地に残る重要文化財建造物であることから、博物館としてもしっかりした図面を整えたいとの希望があり、数年前から建築史・建築芸術研究室研究で調査協力を進めています。この建物は当時としてはレンガと石材の組積造を鉄材で補強した強靭な躯体を持ち、関東大震災の時に躯体は無事でしたが、周囲の大火災の影響で屋根から火災を蒙り、1階から3階まで内装が大きく焼損しました。しかし金庫室のある地階は防火性がとくに高かったため、職員や避難者あわせて340人くらいの方々が地階にこもって難を逃れたと記録されています。現在平面実測図は完成し、断面図と詳細図の作成中で、現状断面図を元に災害復旧時状態を検討して旧営業室の復原図を作成し、そこからさらに当初の状態も検討したいと思っています。現在は学生が図面や模型の作成を進めてくれており、来年度に博物館と連携した展示を行う予定です。


その他に横浜には「居留地旧48番館」という居留地時代の唯一遺構残があります。神奈川県が平成12年まで倉庫にしていた小さな建物ですが、重要遺構と気付かず取り壊し壊しかけた際に古いレンガ躯体であることが確認されました。急遽吉田鋼市先生(現在名誉教授)が調査された際に同行しましたが、建物の楣石に48番の銘を残しており、明治16年建築のモリソン商会(48番館)の2階建てレンガ造建築の一部がかろうじて残っていたことが判明したのです。居留地時代の建物は横浜にはひとつも残っていないと言われていた中で、関東大震災時に大破した建築の一部とは言え、居留地時代の建築が現存していたことは貴重で、急遽保存されて県文化財になったという例に立ち会えたことは良い経験でした。

また現在保存検討に関わっているものとして、横浜市南区にある久保山の「西教寺本堂」があります。立派な木造本堂が震災で焼失した後、伝統的な寺院形式を継承しながら鉄筋コンクリート造で再建された建物です。浄土真宗本堂のきらびやかな内部空間をうまく表現しながら、不燃建築としてよみがえらせた点が注目される建物です。

川崎市文化財の「長弘寺本堂」(1775年建築)の改修履歴は個人的にすごく面白いと思っています。本堂の背面は、巨大な筋違を二本入れることで、躯体全体をガチッと抑えた補強が特徴になっています。

これは関東大震災前に行われたものなのでしょうか。
大野 震災後のようです。背面全体を鉄板養生してあったせいで、筋違補強は側面しか見えていませんでした。背面修理のために壁を外すと、側面以上に巨大な補強が露わになって驚きました。ただしこの補強は震災時のものらしいのですが、これよりもさらに前の筋違補強の跡も確認できました。どういうことなんだろうと考えたら、このお寺の立地が鶴見川の近くということもあり、かなり軟弱な立地なんですね。お寺やお宮は、小高いところや災害に遭いにくい場所につくることが通常ですが、集落自体が湿地にあればその中で一番良い場所を選んでお寺を建てたとしても、地盤が良好とは言えません。関東大震災後の修理で補強したのが現在の状態と想定されますが、関東大震災よりも前に一度補強されていることは間違いないので、1850年代に起きた安政大地震あるいは嘉永の大地震によるものと考えられます。安政や嘉永の大地震による建築被害を明確に伝える実例は私自身確認したことがありませんでしたが、長弘寺本堂はその実例である可能性が高いのです。つまり江戸時代末期の地震被害を受けて補強修理された本堂が、関東大震災で大きな被害を受け、外周柱の過半を取り替え、もっと巨大な筋違に入れ替えることで復旧を果たしているのです。現存する建物を大事に使いながら継承してくことの意味を考える上で、とくに二度の大地震被害を建物が留めながら存続している点で勉強になりました。幸い長弘寺本堂は文化財なので今後壊されることはありませんが、歴史的建造物を調査する意義は、こうした固有の経緯や資料を所有者や関係者の方々にお伝えして愛着を持ってもらい、「みっともないから建て替えよう」という気持ちでなく「大事にしよう」という気持ちになっていただくことも私たちの役割です。

(中)長弘寺本堂背面第2次改修(大正末期〜昭和初期)、第3次改修(昭和30年)図面。
(右)長弘寺本堂背面第4次改修(平成14年)、第5次改修(2012〜2013年)図面。
お話を伺って、被災した建物の保存や修復方法にもさまざまなアプローチや生き延びるための方法があるのだなと思いました。大野先生にとっては、今後はどのような方針のもとで文化財建造物の保存や修復に携わってくべきだとお考えでしょうか。
大野 もちろん人命に被害をおよばさないことが一番ですが、例えば文化財が震災で潰れてしまったとしても普段人が出入りしないような神社の本殿は無理に耐震補強を行わず、オリジナルの良さをそのまま残す選択肢も文化庁の基準の中にはあります。また限定的に人を入れる建物であれば、潰れずとも傾くレベルの補強に留めることもありえます。一方で、絶えず不特定多数の人を入れてホールのように使う建物の場合は、震度7でも倒壊しないような補強が必要です。そういった3段階の考え方で歴史的な建物に対応しようということになっています。どうしても補強を行うと、見た目は損なってしまう。でもその格好の悪さと人命のどちらを取るのかとなると、今回の能登半島の地震もそうだったように人命が大事ですよね。我々文化財建造物の保存継承に関わる者の課題は、建物の本来的な特質を活かしながら、いざという時に被害がないようにしていく。いかにオリジナルの継承と新規補強のバランスを取るのかが大きな課題です。歴史的建造物は200年、300年後も残っていくものなので、我々の時代だけで全部解決するのではなく、いまできることを行って建物の被害をなるべく少なくする。同時に、我々が余計な介入をすることで、建物の価値を損ずることのないようにしなければならないと思っています。

1962年生まれ。日本建築史、古建築保存修復。建築都市文化専攻教授。著書に『横浜の茅葺き建築 茅葺きに学ぶエコロジー』(単著、公益財団法人 横浜歴史資産調査会、2020年)、『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-』(共著、群馬県地域創生部文化財保護課、2022年)など。主な論文に「群馬県島村における近世末~近代初期の養蚕農家主屋2階蚕室における開口部変化」(『日本建築学会技術報告集』第51号、2016年)、「正倉院漆六角厨子復元考察」(『正倉院紀要』第45号、2023年)などがある。