IUIピックアップ VOL.21

ロシア思想史から読み解く
世界の見方と思考

インタビュー

大須賀 史和[ロシア思想史/都市地域社会コース教授]

Interview with

Fumikazu OSUKA

大須賀史和先生はロシア連邦を主なフィールドに、20世紀前半の哲学や倫理学を中心とした思想史について研究されています。とりわけ哲学者アレクセイ・フョードロヴィチ・ローセフ(1893-1988)が残した多岐に渡る思想や言説をベースに、現実世界の捉え方に関する考察を展開されています。当時ローセフが唱えた思想は、私たちの生きるこれからの世界とどのように結び付いているものなのか。ドストエフスキーやチェーホフなど、分野の垣根を越えたアプローチとともに、近現代のロシアに生きている宗教哲学とその多様性についてお話を伺いました。
聞き手|藤原徹平[建築家/Y-GSA准教授]
写真|白浜哲(ポートレート)

大須賀先生の専門の内容について教えてください。

大須賀 さまざまな言い方があるんですが、ロシア思想史という言い方をすることが多いですね。ロシア哲学と言わないのは、例えば日本でいう哲学だと限られた領域のものを扱っている印象が強くて、ある分野ではドイツの影響が強かったり、別の分野ではフランス、アメリカからも影響されているということがあります。だけどロシアの場合はざっくばらんというか幅広いところがあって、文学作品の中で表明されているような思想が哲学として扱われることもあるので、専門は思想史と言っています。

ロシア思想史に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか。

大須賀 大学生の頃に『ロシア的人間』(中公文庫、1989年)という本を読んだことですね。書いたのは井筒俊彦という有名なイスラム学者です。彼は19世紀のロシア文学の大半を読みこなしていて、今読むとほとんどエッセイなんですけれども、その本が非常に面白かったんです。それでロシア人が何を考えて、どう表現しているのかみたいなところに関心を持ったことが大きかったと思います。

ロシアの思想史の中で、大須賀先生がとくに面白いと思っている分野とはどういったものになるのでしょうか。

大須賀 分野としては1980年代後半から始まるペレストロイカによって情報解禁され、表に出てきた思想になります。それまでのロシア哲学とかロシア思想は完全にマルクス主義的なものでした。どこか使い古されているところがあって、長い蓄積の結果としての完成形でしかなかったんですね。

具体的にはペレストロイカによってどういったものが解禁されたのでしょうか。

大須賀 一言ではなかなか言いにくいんですけれども、ロシアの人のまとめ方で「宗教哲学」というジャンルがあります。ロシアやその周辺ではカトリックやプロテスタントではなくて、「東方正教」という東ローマ帝国経由のキリスト教を受容した国が多くあります。しかもロシアの場合は、国家と教会がともに癒着したような成り立ちをしているところがあるので、非常に複雑な関係性を双方に持っているんです。背景を簡単に言えば、17世紀のピョートル大帝の時代にロシアが近代化していく中でキリスト教会が国家機関化されます。ヨーロッパではキリスト教の大きな影響から国家の側が逃れるかたちで政教分離を行い、世俗権力を確立していくというプロセスがありました。ロシアの場合は逆に国家権力の方が一時期急激に強くなってしまいます。その典型として、ピョートル大帝が「総主教座」というキリスト教会のトップを廃止して、国の機構として「聖宗務院」という役所をつくって、その役所に国家の宗教政策を全部任せるというすさまじいことをやってしまいます。どの体制もそうですが、もともと地盤を築いているとはいえ、長く同じところで活動していればだいたい腐敗していくんですね。なおかつそういうかたちで教会が国家機関化された結果、司祭なのか役人なのかもよく分からない存在にされてしまったこともあって、近代化が進むにつれて徐々に教会の権威が落ちていくことになります。
 それに対して、もともとロシアにあった信仰はそんなおかしなものではないという民衆からの宗教運動が各所で起こり、さまざまな事件や反乱といった動きの中から色々なものが出てくることになります。とくに19世紀になってからはドストエフスキーもそうですが、ロシアで独自に培われていたキリスト教的なメンタリティの見直しや研究が文学の分野で起こってくる。その結果として、20世紀初頭に「ロシア宗教哲学ルネサンス」と呼ばれるような、非常に議論が盛んな「銀の時代」がやってくるんですね。

そうした宗教哲学がマルクス主義下では表に出てこなかったということですね。

大須賀 革命でボリシェビキが政権の権力を握って、マルクス・レーニン主義を確立していくわけですが、宗教はマルクス主義にとって敵だったので、それに対する弾圧が20年代半ばぐらいから行われます。そして、30年代の粛清までの時点でそういう宗教哲学者たちがほぼいなくなるんですね。地下水脈みたいなものは残るんですが、思想的には反宗教主義一色であるかのようになっていきます。そうした傾向はソ連崩壊の直前くらいまで続くことになるんですが、私が90年代に留学した時にお世話になった大学の先生たちに聞くと、実は70年代あたりから宗教哲学に関心のある大学生は「サミズダート」(地下出版)というかたちでそれらの書物を読んでいたんだそうです。禁書庫のようなところに保管されている本をたまたま目にすることができた人たちがタイプして、それを回してさらに他の人がタイプして、ちょっとずつ部数を増やしながら回し読みをするという。写本文化のような、それこそキリスト教でずっと行われてきたような伝統が残っていたんですね。その蓄積もあったからだと思うんですが、ペレストロイカの時期に眠っていた本が一斉に再版されることになります。抑えつけられていたものが一斉に解禁されたようなすごいパワーを感じました。ロシアの中で死蔵されていたものが考古学的な発掘のように出てくるという、大きな状況変化があったわけです。
 そのことでロシア本国においても宗教哲学の研究ブームが90年代に起こります。その対象のひとりが私の研究の中心にある哲学者のアレクセイ・フョードロヴィチ・ローセフです。彼は19世紀末に司祭の家系に生まれて、小さい頃から宗教に馴染みながら、宗教哲学が盛んに論じられていた時期にモスクワ大学に入るんですね。ギムナジウムで学んだ天才的な古典語の使い手で、日本でいう中高生くらいの頃からギリシア語やラテン語をぺらぺらと喋ってしまうような感じの子どもだったそうです。宗教哲学が勢いを持っていた雰囲気のなか、彼はキリスト教の考え方を哲学の世界に持ってきたり、古典哲学の再解釈などを始めます。ローセフが書いたテーマは多岐に渡っていて、古典哲学研究の他にも、芸術論、音楽論、さらには「そもそも名前とは何なのか」といったような、今でいう言語哲学に近いものなどもあります。

osuka

大須賀先生の中でローセフの思想の中心はどういうものだとお考えでしょうか。

大須賀 これもなかなか難しいんですが、一言で言えば我々がどのように世界を捉えているのかということですね。これは昔から言われている哲学のテーマでもありますが、プラトンなどが生きていたような古典時代の世界観と、今我々が持っているような近代的な世界観は違うわけです。ローセフは古典哲学をやっていた人なので、ギリシアの古典的な世界観をもう一度復権させても良いのではないかと考えているところがありました。世界は何でできているのかと考えた時、物質からできあがっているという感覚を今の人々は共通に持つだろうと思います。だけどギリシア神話などを読めば分かりますが、古典的な世界観においては、神々がいてその神々がさまざまなことを施した結果によって人間を含んだ世界が成立しているということになります。我々からするとおとぎ話のように聞こえるんですが、当時の人々にとってはそれがリアルの世界なんですね。実際に神々が自分たちと地続きで住んでいるような感覚で生きていたと。それと、今の我々のような歴史感覚、これこれの過去があるから今があるという感覚がギリシア世界には欠如していたと言われているんです。歴史に関する書物も残されていますが、トゥキュディデスの『歴史』を読み直してみても、彼にとっての昔のことは何も書いていません。その人たちが生きているリアルタイムの事柄だけが記録されています。つまり進行中の現在に対する現実的な感覚と神話的な物語を合わせたような不思議な世界観を持っているということですね。もしかするとそれこそ人間が持っている世界の見方の原型のようなものであり、そこから人々が科学的な知識を得ることによって徐々に世界観が修正され、変化してきたのではないかと。その結果として今の現代文化があるのだとすれば、そこで起こっている問題を異なる視点から見直すことは強力な現代批判として有効です。実際にそれは20世紀初頭のドイツで起こっていたような現代批判で、ニーチェやシュペングラーも実践していたことでした。そういったものをローセフも参考にしているところがあるんですね。常日頃から見ているような目線とは違う目線を獲得することは、例えば現代に生きている我々の状況をどう捉えるかという時にも有効であるように思います。

例えばドストエフスキーやチェーホフにおける文学や演劇と、今のお話にあった思想とのあいだに近接性はあるのでしょうか。

大須賀 もちろんあります。ドストエフスキーの晩年の大作『カラマーゾフの兄弟』(1879-80年)や『罪と罰』(1866年)はほとんどキリスト教文学と言っていいようなものです。だけどヨーロッパの西側でこの物語をやってしまえば、確実に批判されるテーマを扱っているわけです。『カラマーゾフの兄弟』は、表面的には宗教的なお説教くさい話でありつつも、それを根底からひっくり返すようなテーマを提示しているところがあります。とくに二番目の兄弟のイヴァンの考え方に「もしこの世界に神がいなければ何をしても許されるはずだ」というものがあります。つまりそうなった時に人間はどうなるのかという宗教的なタブーに触れるようなテーマを小説で実験的に描いているんですね。もちろんこの作品が世に出た時はロシア国内で大きな反響を呼ぶことになりますが、外国に紹介された時にもすごい衝撃を与えることになります。19世紀のヨーロッパでは、暗黙のうちにキリスト教的な規範から逸脱してはいけないということが強く言われていましたからね。この「もし神がいなかったら」という考え方は、殺人のような恐ろしいテーマにつながっていくというスキャンダル性も孕んでいます。当然それはロシアの思想をやっていた人たちにも大きな影響を与えていて、『カラマーゾフの兄弟』は20世紀初頭の宗教哲学者たちにとって大きな研究対象になっています。
 それに比べると、チェーホフの場合は穏やかな作品が多いですよね。穏当な社会で生きている小市民というか、そういう人たちの悲哀を丁寧に描いています。『桜の園』(1903年)に登場する没落貴族などもそうですが、社会の規範の中でちゃんと生きていて、本来であれば幸せな人生を送れそうな人たちが不幸になっていく話がすごくあります。チェーホフそのものは宗教哲学の中だとあまり話題には挙がらないんですが、日本では今でもよく演劇の脚本として使われるように、日本人の琴線に触れるテーマが多いように思います。それと同時に、ロシアの人たちが自分たちの精神性について考える時にはどこか劇的なものというか、極限の条件下で生きる人間を探求したいという傾向があるんですね。
 そう考えてみると、ロシア思想史の中には面白いものが多いですね。ただ、それが研究だったり、仕事として成り立つのかと言うとなかなか難しいところはあります。昨今のウクライナ情勢なども踏まえると、ロシア文学研究を今どういうふうに進めていくべきなのか、問い直しが始まっているところです。

書影
書影 (左から)井筒俊彦『ロシア的人間[新版]』(中央公論新社、2022年)
アレクセイ・フョードロヴィチ・ローセフ『神話学序説―表現・存在・生活をめぐる哲学』(成文社、2006年)
フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(岩波文庫、1957年)
アントン・チェーホフ『桜の園[新訳]』(未來社、2020年)

チェーホフ、ドストエフスキー、あるいはメイエルホリドといった芸術的アプローチから見ていくと、先ほどのギリシアにおける古典的世界観からつながる流れはすごく納得できます。古典主義と人々とをいかに連続的なものとして捉えるかという意識だったり、そのための時系列や歴史観ではなく、とにかく神なるものがいて人間がいるんだと。そういった古典的世界観の単純化された思考パターンに向かう意識が、ロシア思想史の中に脈々とあったのかもしれませんね。

大須賀 たしかに今出てきたような芸術畑の人たちがやっていることは面白いですが、そこには芸術家独特の勝手な解釈が入っていることも考えなければいけません。だからこそ逆に面白いということもあるんですが、メイエルホリドもスクリャービンも、ちょっと悪い言い方をするとパラノイア的なんです。関心があって専門家から聞いた話だとしても、それを勝手に解釈して曲げていくところが芸術家にはあります。だから正統派からすれば、もはや異端だと言わざるを得ないところが出てくる。自由な解釈をしてつくった芸術作品そのものも賛否両論で議論されることになるし、そこに作家の独自の思想が色々入り込んでくることもあると思います。ただそれが、ロシアの人々のオーソドックスな考え方なのかと言うとそうではないんですね。

思想の底流になっているわけではないということですね。

大須賀 一般に議論されるような思想の場合はほとんどがオーソドックスなものから影響を受けているので、むしろそちらをある程度知っておかないと仮想のロシアを見てしまうことがあると思います。それは政治や経済の世界においても同じです。今のプーチンのように表舞台に出てくる人たちは、一般的なロシア人とは少し違う感覚を持っている人物だと思って見た方が良くて、言わば特異性を持った人たちなんですね。ゴルバチョフなどもそうですが、あの時代にロシア国内で改革を行わなければいけないという機運はたしかにあったと思います。だけどそれを正面切ってやって、最終的には道化のような役割を演じることになってしまったところがありますが、そういう蛮勇がふるえるというのは並の人間の感性ではないと思います。むしろ「長いものに巻かれろ」という人がロシアには多いので、そこは意外と日本人に似ているのかもしれません。その時々の権力関係に従って生きていく方が普通に生きられるし、そこそこ良い生活ができたりもすると思っているので、そのあたりの感覚は日本とそんなに変わらないと思います。

村社会のような側面が多少あるということでしょうか。

大須賀 そういった側面は明らかにありますね。今でこそSNSの時代になりましたが、それ以前からロシアには噂を基盤とした社会があって、口伝えでいろんな情報が飛び交うような社会でした。その情報をうまく掴めば、翌日に何が起こるか分かってしまうこともある。だけどそんなことばかりではしがらみに囚われて社会はどんどん古くなってしまい、新しいこともできなくなってしまいます。だから新しいことを真っ向からやる人たちがたまには出てこないといけないということで出てきたのがゴルバチョフだったのかもしれないし、エリツィン、あるいはプーチンだったのかもしれないと。ああいった指導者の姿だけを見てロシアをイメージすると見方を間違えてしまうんですね。

ありがとうございます。最後に学生へ向けたメッセージをいただけますか。

大須賀 都市イノベーション学府は専門職大学院と銘打っているので、すぐに社会に出て役に立つことを勉強しなければいけないような雰囲気を感じてしまうかもしれません。でもむしろ役に立たないことを勉強することの面白さも知ってもらいたいですね。今は役に立たなそうに見えても、それを役立たせる方法をまだ我々が知らないだけかもしれません。表面的な有用性にごまかされずに、その本質を自分で見極めていってほしいと思います。

Fumikazu OSUKA
Fumikazu OSUKA
1967年生まれ。ロシア思想史。都市地域社会専攻教授。著書に『新しい文化のかたち―言語・思想・くらし』(共著、御茶ノ水書房、2005年)、『ユーラシア世界2 ディアスポラ論』(共著、東京大学出版会、2012年)。主な論文に「ロシアの哲学・思想における古典 ―20世紀初頭を中心に」(日本スラヴ人文学会『スラヴィアーナ』収載、2011年)、「ローセフの古典的世界観と数・音楽の神話」(ロシア思想史研究、2021年)。訳書にアレクセイ・フョードロヴィチ・ローセフ『神話学序説―表現・存在・生活をめぐる哲学』(単訳、成文社、2006年)がある。