IUIピックアップ VOL.14

バーバリアン、あるいは都市の未開の状態

インタビュー

彦江 智弘[フランス文学/Y-GSC教授]

Interview with

Tomohiro HIKOE

彦江智弘先生は、毎年、学生とともにZINEをつくるワークショップのために福島県の西会津町にあるBarbarian Booksを訪れています。そこでどのようなことを行い、どのようなことを考えるに至ったのか。そして、都市から離れることで逆に都市についてどのようなことを見出すことができるのか。お話を伺いました。
聞き手|藤原徹平[建築家/Y-GSA准教授]
写真|鈴木淳哉

彦江先生は、ここ数年、福島に学生を連れてワークショップに訪れているそうですね。そこでどういったことをしていて、その活動を通してどういったことを考えているのか、お聞きできればと思います。

彦江  僕はフランス文学の研究者なので、田舎に行っているといっても、田舎を社会学的に調査するとか都市計画的な観点でフィールドワークを行っているというわけではないんです。田舎というと、農業など第一次産業がベースとなった定住的な場所であると考えられるわけですが、その一方でいまは都会から田舎に拠点を移すという流れがあったり、都心に住んでいる人が年に何回か農業体験をしに訪れることがあったりとテンポラリーに田舎に関わる人が増えてきているということもあります。僕たちの田舎との関わりもそういったテンポラリーなものです。
 僕が学生たちと訪れているのは、福島県の西会津町という人口6000人ぐらいの町にある上野尻という集落です。かつては近くを会津街道が通る宿場町だったのですが、今では駅前のメインストリートに郵便局とガソリンスタンドと商店が一軒、あとは床屋があるぐらいです。その上野尻になぜかBarbarian Booksという、本屋でもありコミュニティスペースでもあるようなデザインスタジオがあって、そこに学生たちとZINEをつくりに行っています。今日は、この上野尻に出かけてZINEをつくりながら考えたことをお話できればと思います。

Barbarian Booksというのはどういった場所なのでしょうか。

彦江 グラフィックデザイナーの楢崎萌々恵さんとウィリアム・シャムさんのふたりがITWSTというチームを組んで活動しているのですが、彼らの拠点がBarbarian Booksです。ふたりはレジデンス・プログラムで西会津国際芸術村に長期滞在した折りに西会津が気に入って、プログラムの終了後に廃屋になっていた呉服屋を借り受け、自分たちでリノベーションをして、Barbarian Booksをスタートさせました。もちろんZINEなどの製作物を販売しているのですが、自分たちのライブラリーを開放して自由に本が読めるようになっていたり、ウィルがアメリカ出身ということもあって、地域の子どもたちを集めて英会話教室を開いたりスケボーを教えたりもしています。リラックスした雰囲気のなか自由な活動を行っているのですが、そうすると上野尻でおもしろいことをやっている人たちがいるという噂が広まって、東日本大震災後に福島で何かやりたいという思いを持っている別の若い人たちが今度はゲストハウスを始めたりと活動の輪が広がっています。

Barbarian Booksに行っての学生の反応はどうですか。

彦江 すごく充実しています。その理由はふたつあって、僕の学生は人文科学を研究しているわけですが、ひとつには文化を基点にしたまちづくりや田舎の再生を目の当たりにできること。もうひとつは、ウィルにもZINEをつくるって気持ちいいよねと言われたんですけれど、やっぱりものを作るというのは楽しいんですよね。それに専門的な知識がなくても、今ある自分たちのスキルや知識を最大限活用して表現活動を実践できるということが楽しいんだと思います。

具体的には、ZINEというのはどういったものなのでしょうか。

彦江 ZINEとは一般的に手作りの小冊子で、その多くはコピー機で印刷した紙をホチキス止めしたような簡易的な製本でできています。とはいってもZINEにルールはないし、実際、多種多様なZINEが存在しています。でもあえて自分なりに定義をすると、まずはZINEとはオルタナティヴ・メディアであると言えると思います。実際、大手メディアではなかなか取り上げられないけれど自分たちが好きなものがあって、それを表現するために例えばアニメや漫画、SFの愛好家たちがZINEを作ったという歴史があります。その一方で、もう少し社会的な観点を備えたZINEの流れもあって、例えば1990年代にRiot Grrrlムーブメントいうオルタナティブロックが登場するのですが、彼女たちは活動の一環として戦闘的なフェミニズムを標榜するZINEを発刊し、ZINEの歴史に大きな足跡を残しました。たんにメインストリームのロックに対するオルタナティブとして自分たちを位置づけるだけでなく、男性中心主義に対するオルタナティブも標榜していたというわけです。また、パンクの影響もあります。
 Sideburnsという有名なパンクのZINEがあって、その創刊号(1977)の裏表紙にはギターの3つのコードを示したイラストが掲載されているのですが、そこに「NOW FORM A BAND」という文章が添えられています。つまり音楽をやるには高度な専門的スキルや巨大な資本がなくても、コードを3つ覚えたら、後は自分たちでバンドを始めることができるというメッセージです。パンクは他にもTシャツを引き裂いてファッションにしたり、自分たちでイベントやライヴを企画したり自主レーベルを興したりと、すベてがDo It Yourself(=DIY)に貫かれていました。こういったZINEのDIY文化という側面もいろいろと考えるきっかけを与えてくれました。

彦江先生がDIYに注目するのはどういった点からでしょうか。

彦江 最初に断っておくと、田舎が都市のオルタナティブで、都市は専門家の手に委ねられているのに対して田舎にはDIYの余地が残っているということではありません。通常DIYは日曜大工や工作を指すわけですが、その背景には第二次世界大戦の戦災があると言われています。空爆によって街が破壊されたイギリスで、戦後、自分たちの住まいを再建しなければならないのに、専門的な職人も十分な資材もない、ならば自分たちでやるしかないということでDIYが広まります。つまり、DIYは廃虚の中でわずかばかりのリソースを駆使してリコンストラクションするというギリギリの状況から生まれてきたものなわけです。ここに都市と田舎の対立はありません。
 また、フランス語でDIYを指す言葉はブリコラージュ(bricolage)ですが、ブリコラージュと言うとクロード・レヴィ=ストロースが思い浮かびます。レヴィ=ストロースはブラジルの奥地の先住民を調査の対象にしたわけですが、間に合わせのもので何かをつくるとか、ありあわせのもので自分の思考を組み立てる彼らの営みに注目しました。


「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の内容構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである
(レヴィ=ストロース「具体の科学」大橋保夫訳、みすず書房、1976年、p.23)


Barbarian Booksでのワークショップの様子
Barbarian Booksでのワークショップの様子

 面白いことに、このようなDIY精神はヴァルター・ベンヤミンのテクストにも見出せます。ベンヤミンは「経験と貧困」(1933)という短い文章の中で、科学技術が急速に普及発展した当時の世界が、経験の貧困が露わになった一種の「未開の状態」(Barbarentum)であると言っています。ここでいう「経験」とは経験に基づく知恵のことです。例えばこの時代フォーディズムという生産システムが普及するのですが、もはや車を作るのに専門的な知識とか経験は必要ない。なぜなら複雑だった作業が極端に分解されて、工員はもはやネジを一個締めるとかミラーをつけるだけという何の知識も経験も必要としない単純作業に従事するだけだからです。このような経験の喪失が社会の様々な領域で進行しており、代々受け継がれてきた経験に基づく技や知恵が失われるだけでなく、そもそも経験の可能性自体が乏しくなってしまった。これがベンヤミンが「未開の状態」と呼ぶ事態です。でもベンヤミンはこのような状態をむしろポジティブに受け入れます。


未開人はいちばん初めの段階から事を起こさねばならない。つまり、新たに始めること、わずかばかりのもので遣り繰りすること、そのわずかばかりのものから拵えあげること、そしてその際に右や左をきょろきょろ見ないこと
(ヴォルター・ベンヤミン「経験と貧困」浅井健二郎訳、『ベンヤミン・コレクション2 - エッセイの思想』ちくま学芸文庫、1996年、P.376)


 ベンヤミンはこの「未開人」の例としてアドルフ・ロースなどを挙げるのですが、同時にここで言われていることはDIY精神にも通じると思うんです。ここですごく重要なのが、ベンヤミンが科学技術の発展によって特徴付けられる1930年代の世界が「未開の状態」、DIY精神を発揮しなければならないような一種の「廃墟」であると透視していたことです。なにも目の前に文字通りの廃墟や未開社会がある必要はないのです。それに田舎=未開と言いたいわけでもありません。都市だろうと田舎だろうと未開の状態はあります。むしろそこに未開の状態を見出すということが重要なんだと思います。

例えばレム・コールハースのような建築家はどうでしょうか? 2020年の2月にグッゲンハイム美術館で、レム・コールハウスとAMOによる展覧会「Countryside, The Future」が開かれるそうです。レム・コールハースはこれまで都市のことしか書いてきませんでしたが、瀬戸内海の犬島や、大三島で伊東豊雄さんがやっているプロジェクトなど、いまでは都市建築以外にも注目をしているらしいんですね。その意味でも、今日のお話と関係しそうですね。

彦江 レム・コールハースもバーバリアン的な感性を持っている人だと思います。彼は「ビッグネス、または大きいことの問題」というテクストの中で「ビッグネスは破壊するが、それが新しい始まりとなる。自ら解体したものを組み立て直すことができるのだ」(『S,M,L,XL+ 現代都市をめぐるエッセイ』、太田佳代子・渡辺佐智江訳、2016年、p.58)と書いています。これもある意味、廃虚からのリコントラクションということだと思います。しかも「ビッグネス」がもたらす「新しい始まり」がたいへん示唆的なのは、S、M、Lと段階を追って大きくなっていく建築や都市が、ある大きさを超えてXLサイズになると単にスケールの拡大では捉えられない特異なものになるという点です。


ある臨界点を超えると、建物は「ビッグな建物」になる。そうした量塊[マッス]はもはやひとつの建築的身振りでコントロールできるものではない、いや、複数組み合わせても無理である。このお手上げ状態により各パーツは一斉に自立するが、断片化するわけではない。どのパーツも全体に属したままだからだ
(レム・コールハース「ビッグネス、または大きいことの問題」「ビッグネス、または大きいことの問題」『S,M,L,XL+ 現代都市をめぐるエッセイ』、太田佳代子・渡辺佐智江訳、2016年、p.52)


 つまり、「ビッグネス」になることで従来の「建築的身振り」を超え出る何かが産み出されるということがここでは問題になっています。これはZINEを考える際にも手がかりになりそうです。そもそもZINEも従来の出版文化の「身振り」を必ずしも踏襲する必要はありません。でも同時に、コールハースとZINEはあえて対比的に捉えてみたいと考えています。そこで取り上げたいのが、文化人類学者のアナ・チンによる『マツタケ 不確定な時代を生きる術』(赤嶺淳訳、みすず書房)です。面白いことに、原書では副題が「資本主義がもたらす廃墟における生の可能性」となっていて、ここでもやはり廃虚の中でどのようなリコンストラクションが可能なのかということが問題になっています。この本の中にはスケーラビリティ(=規格普遍性)という概念が出てきます。例えば稲作はいったんシステム化されると、これを拡大したり、条件さえそろえばいろんな場所に移植して同じようなかたちで栽培することができます。このようにシステム化できて、S、M、Lと拡張が可能なことをスケーラビリティと呼びます。ビジネススキームなども基本的にはスケーラブルなものです。ところがマツタケは周囲の環境因子と特異な関係を結んでいて、人工的な栽培が不可能です。つまり、従来の「農業的身振り」によってスケーラブルなかたちでシステム化することができません。

このスケールのお話はいろいろな方向に発展できそうですね。彦江先生が専門とされている文学とも関わるものなのでしょうか?

彦江 語学の教師もしているのですが、学生に文法を説明する際に悩むことがよくあります。語学は規則を知ることだと教えるのですが、例外がたくさん出てくるからです。例えばそのひとつに比較級、最上級の規則があります。英語だったら例えばbigがbigger-biggestになるのに、goodの場合はbetter-bestと規則通りにはなりません。これは、「良い」という感情を強めて言う際に、まったく異なる語源に由来する語に変換した方がより強調されるということらしいんです。これもよくよく考えると、さきほどのスケーラリビティの話と同じです。こうしたスケールの逸脱というものが文学を起動させることがあると思います。文学が文字によって何らかの出来事を産出するものだとして、bigがbigger-biggestになるだけではなかなか出来事にはなりません。変化はしているけど、そこでは規則性が保たれている。やはりgoodがbetter-bestになるような特異性が文学においても鍵になります。

マツタケにもコールハースのメガシティにもそういった特異性があるのではないかということですね。

彦江 コールハースのメガシティがXLサイズのノンスケーラブルならば、マツタケはXSサイズのノンスケーラブルだといえそうです。このマツタケのノンスケーラブルな特異性を説明するために、アナ・チンは「アッセンブリッジ(寄りあつまり)」であるとか、「コラボレーションとしての汚染」「染めあい」といったおもしろい概念を活用しています。その一方で、『ビッグネス』の中に、「そこには存在する。せいぜいのところ、共存する。だが本当は、まわりの状況コンテクストなんか糞食らえ・・・・、と言っている」(p. 53-54)という有名な言葉ありますが、コンテクストなんか関係ないとまで言い切ってしまうのがコールハウスの立場なのかなとも思います。これはマツタケが示す特異性とはまた別のものです。先ほど、コールハースが田舎に注目してるという話がありましたが、どのような観点で注目しているのかたいへん興味深いところです。

Barbarian Booksでのワークショップの様子
Barbarian Booksでのワークショップの様子

マツタケのようなノンスケーラブルな特異性を見出すにはどうしたことが必要だと考えますか。

彦江 先ほどDIYに都市も田舎もないということを言いました。僕が西会津に行ってZINEをつくりながら考えたのは、たとえ小さくても、「まわりの状況コンテクストなんか糞食らえ・・・・」とは言わずに、マツタケのようなXSサイズの特異性をわずかばかりのものでやりくりしながら作り出すことはできないだろうかということでした。その一方で、ベンヤミンはさっき話した野蛮とは別にもうひとつの野蛮があると言っています。自分たちが持っている既得権益を何が何でも手放そうとしない野蛮な連中(未開人)がいると。もしかすると都市にいると、そちらの野蛮ばかりが目につくということがあるかもしれません。現在、世界中で都市化が急速に進行しており、日本でも2度目の東京五輪を梃子に大規模開発が百花繚乱なわけですが、ベンヤミンのように、ここにあえて「廃墟」を透視してみることが必要なのかもしれません。

マツタケの特性である「アッセンブリッジ」や「染めあい」には、今日のコミュニティを考えるヒントもありそうですね。

彦江 1920年代に伊藤野枝というアナキストの活動家がいました。彼女がクロポトキンの相互扶助論を踏まえながら書いた文章を学生たちと一緒に検討したことがあります。彼女は福岡県の田舎の出身なのですが、決心して東京に出た若者たちの多くが貧乏な故郷の村に帰ってくることを不思議に思ったと言っています。伊藤はその理由が村の「組合」による相互扶助の仕組みにあるとして、そのあり方を描写しています。「組合」といっても通常イメージされる労働組合やPTAのような組織ではなく、平時には組合には何の仕事もなく、どこかの家に問題が生じると、組合員が集まってどうするか相談する。相談する場所も決まった集会所があるわけではなく、家の門口や畑の傍らだったりする。話し合いの中では、村長と日雇い労働者が区別なく同じ資格で意見を言い合う。そして問題が解決すると解散し、また何か問題が持ち上がったときに再び協働するというものです。通常の相互扶助組織だと、たいてい明確な役割分担に基づくヒエラルキーが形成され、何もないときにもその組織が維持されようとするのとは真逆です。これは稲作のようなシステム化された農業よりもマツタケのアッセンブリッジに似ていると思うんです。役割分担やヒエラルキーに基づいて組織的に動く集団が重要になる局面もあるとは思うのですが、何もないときにまでそれを維持するために厳しい官僚組織や役割意識をおしつけられるぐらいだったら、何か問題があったときにだけ集まって、適材適所で組織を組み立てて、問題が解決したら解散してまた組織し直す方がいい。今日のコミュニティのあり方としてこのアッセンブリッジに強いリアリティを感じています。

Tomohiro HIKOE
Tomohiro HIKOE
1968年生まれ。フランス文学。横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院教授。主な論文に、「〈言葉の受肉〉としての引用 ─ ゾラとトニー・ガルニエのユートピア」『引用の文学史 フランス中世から二〇世紀文学におけるリライトの歴史』(共著、水声社、2019)「ゾラにおける「社会的なもの」の上昇 ─『パリ』のトポグラフィー 」(『常盤台人間文化論叢』2号)など。訳書に、オリヴィエ・アサイヤス『5月の後の青春 アリス・ドゥボールへの手紙、1968年とその後』(boid、2012)。