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124丘の上にも川?江戸東京の地形的特徴として、武蔵野台地の台地面では水が得にくいです。関東ローム層の台地には水が染み込んでしまい、台地の上では水の確保が難しい。それを解決するために、町の生活を支える上水道や用水路がたくさん築かれました。残念ながらそうした水路は、今は役目を終え、水路は道路などに置き換えられましたが、その水路跡をたどるという楽しみを与えられているとも言えます。稜線、すなわち丘の上でも、用水跡の暗渠道をたどるという密かな楽しみがあるわけです。江戸の用水跡を写真で紹介しましょう。高輪の台地は、江戸のころ武家地だったわけですが、高燥の台地に水を供給するための水路跡がこの写真です。「城南五山」という呼び名を聞いたことがありますか?目黒川を南に望む台地に、そのような「山」の呼び名が与えられています。池田山や島津山、八ツ山、御殿山など、ブランド名としてマンション名などに使われています。地形的には独立した山ではなくて、谷で分断された舌状の台地がそう呼ばれています。ですからブランドとして人気のある「山」だって「谷あってこそ」なんだと言えますね(笑)。白金台や高輪台は、渋谷川(古川)へと注ぐ古川水系が台地北面を刻み、台地南側を流れる目黒川に注ぐいくつもの谷があるのが凹凸地形図からも分かりますね。そして微妙な稜線をたどりながら作られたのが三田用水なのです。海を臨む南向きの台地に大名屋敷が立ち並び、そこに水を供給するために玉川上水から分岐して三田用水が築かれました。3D 鳥瞰図で見ると、用水路の一部が途中で切れてしまっているのも分かります。江戸時代はおそらく土手あるいは水道橋のようなものがあって、水路はつながっていたと思います。その名残がこの写真で、三田用水の遺構を住宅地の中に見つけることができます。流路跡は暗渠道として残されていますし、用水に架かっていた橋(今里橋)の跡も残っています。スリバチ地形はどのように生まれたのか?摩訶不思議なスリバチ地形がなぜ生まれたかということについて、先ほど紹介しましたけど、もう少し地学的に説明しておきます。武蔵野台地を流れる神田川や石神井川、野川などは、標高で50mぐらいの所で水が湧き出て池を作っています。石神井公園、妙正寺公園、善福寺公園、井の頭公園、神代植物公園にある池はもともと湧水池で、そこから流れ出た水が石神井川や神田川などの河川の水源をなしています。地形図からも標高がほぼ同じことに注目して下さい。この標高50mの湧出点とは、実は扇状地の先端部分だった場所なのです。社会科でも習いましたが、扇状地では扇型の先端で伏流水が湧き出ますよね。50mラインはその湧出点にあたります。武蔵野台地の場合は、水が湧き出す扇状地に、大量の火山灰が降り積もりました。水が流れる部分では火山灰が流されて積もらないため、谷は深くなってゆきました。その結果として形成されたのが、現在みられるスリバチ地形なのです。火山灰をまき散らす富士箱根火山帯が偏西風の風上にあること、豊富な降水があること、それから都市化の時期が比較的早かったことが、東京ならではのスリバチ状の窪地や凹凸地形を形作ったことを先ほども紹介しました。こうしたスリバチ状の窪地は東京周辺では多く見られ、郊外に行けば都市化される前の谷戸の原風景を見ることができます。関東地方では谷戸田や谷津田と呼ばれていますが、湧水や流れる水を使い、水田に利用されているところが多いのです。この模式図のように、谷戸田の風景が都市化されたのが現在の東京なのです。もう一度整理すると、東京でスリバチ地形がみられる3つの要因とは、「関東ローム層の堆積」「降雨量の多さ」「都市化の時期」ということになります。さて関東ローム層の供給源は富士箱根の火山帯と紹介しました。火山灰が恒常的な偏西風に乗って東京上空に運ばれたわけですが、横浜は富士箱根に近いということで、実は東京以上の高低差を持ったスリバチが見られる場所でもあるのです。この事実に気づいてしまうと横浜という場所はスリバチマニアにとって極めて興味深い場所なのであります。「さらば行こう!西へ!!」ということで、横浜に話を移しましょう。横浜の凸凹地形を楽しむ横浜の地形をカシミール3D で表現すると、東京以上に襞の多い凸凹地形であることが一目瞭然、火山灰が多く積もったわけですから谷の比高も東京以上です。そして、たくさんのスリバチ状の窪地もあります。というわけで私はまだそれほど歩いているわけじゃないですが、地形図を見ているとすぐにでも出かけたくなりますね。横浜の土地がどのように形成されたのか経緯を振り返ってみましょう。自分たちは今、このあたりにいます。地形で言うと砂州とか砂嘴(さし)とか呼ばれる微高地で、かつて「象ヶ鼻」と呼ばれた場所には入り江がありました。いまの伊勢佐木町あたりは内海でした。この内海の水が排水されて、水田開発されていくわけですが、海側の浜に微高地が横たわっているということで「横浜」という地名が付けられました。カシミール3D で表現すると、やはり関内付近が微妙に高く、一方山手の台地の高低差感が分かると思います。砂州上にあった集落は横浜村と呼ばれ、もともと原住民が住んでいましたが、幕末に貿易港を造らなければならないということになり、砂州の原住民は、強制的に元町へと移転することとなります。その後、空き地になった砂州の上には外国人の居留地が作られました。入り江近くにあった横浜村の弁天社も元町へと移転し、現在は厳島神社と呼ばれています。それでは台地の凸凹地形を見てゆきましょう。地形図から分かる通り、横浜山手の凸凹はものすごいですよね。たとえば鶴見の近くの下末吉は本当に見事なスリバチ地形。この辺りを歩いたことある方いらっしゃいますかね(?)地形図で見ますと平らな台地をスプーンでいくつもえぐり取ったような窪地がたくさんあります。「東京よ、これがスリバチだ。横浜こそがスリバチの本場だぞ」と言いたくなってしまうほどです。実際行ってみる丘と谷の高低差は30m 以上あると思います。この写真は、入江川の上流からみたスリバチ景観の眺めですが、遠くに鶴見の排水塔が見えますね。用水路が丘の上を走っているのと同じように、水を分配するための施設はポテンシャルの高い丘の上にあるわけです。「渋沢稲荷下のスリバチ」と勝手に呼んでいる谷間では、大地がうねっているような光景が写真からも分かりますね。